細野 真悟(ほその しんご)


リクルートに入社し転職サイトリクナビNEXTのシステム開発から、営業販促を経て商品企画を経験。2016年にリクナビNEXT編集長へ就任し、リクルートキャリアの執行役員に。2017年にはリクルートホールディングスに出向し、リクルートライフスタイル、リクルート住まいカンパニー2社の社外取締役として経営ボードに参画。現在は全世界で700万DLされている音楽コラボアプリ「nana」を運営する(株)nana musicのCOOとしてプロダクトマネジメントから経営全般を担当。パラレルで、大企業期待人材を1年間ベンチャーにレンタル移籍しイノベーション人材に育てる(株)ローンディールのCSOとして主にビジネスデベロップメントを兼任。


「企画マン」として結果を出し続けたリクルート時代

まず、現在のお仕事内容について教えてください。


音楽コラボアプリ「nana」を運営する株式会社nana musicで、COOとしてプロダクトマネジメント全般を統括しています。また、大企業の期待人材をベンチャーにレンタル移籍させイノベーション人材に育てるサービスを運営する株式会社ローンディールでは、CSOとしてビジネスデベロップメントを兼任しています。


両者のサービスには共通していることがあります。それは、リリース当時はまったく儲かりそうもないプロダクトだったということ。誰も見たことも聞いたこともない。けれどすごく価値があると私は思えるのに、ビジネスモデルが未熟すぎて、だから競合もいない。そんな状態のプロダクトが持続的に成長できる仕組みを作るために、策を練っては試すことを日々続けています。


自分の仕事を一言で表現する言葉は何だろうと考えて、現在はビジネスデザイナーという肩書を名乗っています。中でも、0→1でも1→10でもない、0.5→5のフェーズを得意としていて、私が参画した当時のnana musicもローンディールも、まさに0.5くらいの状況でした。

どのような経緯で「ビジネスデザイナー」というポジションを確立されていったのでしょうか?


前職のリクルートで企画職を長く務め、いわゆる「企画マン」として歩んできたキャリアは確実に今の自分につながっています。


私がリクルートに入社したのは、ちょうど世の中でIT化が進み始めた頃で、リクルートでもいろんな事業が紙媒体からインターネットに主軸を移そうとしている時期でした。当時私はシステム開発を担当していて、まさにIT化の渦中でそのインパクトを日々感じていました。なにしろ、昨日までできなかったいろんなことが、ITを使えば一発で実現できるんですから、その威力はすさまじいものがありましたね。


ITという武器をしっかりと身につけた後、私はそれを使って何をするかを企画できる立場に異動していきました。リクナビNEXTの商品企画を担当し、数年を経てだんだん結果もついてくるようになります。入社8年目くらいすると、「NEXTの商品企画といえば細野」と言われるようになって、自分が好きだったことと周りからの評価が一致し、企画マンというポジションが形作られていきました。


10年近くリクナビNEXTの部署に在籍した後、新規事業開発室に異動になりました。ある程度できあがった商品の企画ではなく、まったく新しいビジネスを立ち上げる、いわゆる「0→1」の企画は初めての経験でした。リーンスタートアップを始めとする新規事業開発手法に触れ、独自にメソッド開発もして、担当した新規事業は経済産業大臣賞を受賞するまでに至りました。


リクナビNEXTと新規事業に携わったことで、1→10の企画と0→1の企画双方を経験できたことは、自分の大きな強みになりました。培ったスキルと経験を引っさげ、新規事業開発室の後に異動した部署では、大胆な企画で人材紹介事業の売上を100億円伸ばすことに成功します。でも、この頃も自分は「企画マン」であり、ビジネスデザイナーだと思ったことはありませんでした。


ビジネスデザイナーと名乗り始めたのは、私が師と仰ぐ濱口秀司さんとの出会いが発端です。世界的なイノベーターで、USBメモリを始めとする画期的なコンセプトを数多くリードしてきた方です。彼のことを知ったきっかけは、たまたま視聴した講演動画でした。イノベーションを完璧に構造化し、再現可能なメソッドとして表現する講演内容に衝撃を受け、興奮のあまり翌日にはFacebookでご本人に直接メッセージを送ってしまいました。「この人みたいになりたい」って初めて思ったと同時に、彼の思考法が、どこか今までの自分のそれと似ている部分があるなと感じたんです。「そうか、私は濱口派なんだ」と。


濱口さんとの出会いに刺激を受けて、改めて「企画とは何か」を自分に問うてみました。考えてみれば、企画マンというのは掴みづらいジャンルです。どんな職種だって何らかの企画をしているわけですから。じゃあ、私がやりたい企画は何だろうと考えたとき、あるプロダクトがビジネスとして成長していく「構造」を作ることが好きなんだなと気付いたんです。一過性の売上アップ施策ではなく、手を離しても自動的にプロダクトが伸びていく仕組み。それを作るのは、もはや商品企画の域を越えていると思い、すでにビジネスデザイナーと名乗っていた濱口さんの肩書を借りて、私も自分の仕事を企画マンからビジネスデザイナーに再定義しました。

この世の理不尽な仕組みをリビルドしたい

長らく企画マンとして活躍された後、ビジネスデザイナーとしてご自身を再定義されたわけですね。そもそも何かを企画することに興味を持ったきっかけは何だったのでしょうか?


企画することの楽しさに最初に目覚めた原体験は、中学時代に友達とたくさん行ったキャンプや野宿の経験です。実家の町田からみんなで自転車をこいで、相模川の河原によく行きました。紐の結び方や火の起こし方なんて知らないけれど、何もないところから快適な環境を作り出すためにみんなで工夫した経験が、すごく楽しかった記憶として今でも脳裏に鮮明に焼き付いています。遊びを考え出したり、みんなで料理を作ったり。何もルールがない完全に自由な環境では、みんなのアイデアが冴えました。


ベースから何かを組み上げることが好きだったからこそ、身の回りにある「絶対そうじゃないほうがうまくいくじゃん!」という不完全な仕組みが次第に目につくようになりました。なぜこんな非効率な授業のやり方がまかり通っているのか。車なんて1台も来ていないのに、なぜ青信号を待たなくてはならないのか。気がついたら、「誰が考えたんだコレ!」「誰が決めたんだ!」という言葉が口癖になっていましたね(笑)。


家柄も影響しています。私の実家は150年近く続いた呉服屋です。身の回りの理不尽な仕組みに人一倍違和感を感じていたにも関わらず、長男であるが故に、私からするとよくわからない伝統やしきたりをまさに人一倍強要される境遇にいたわけです。法事にお中元・お歳暮、親戚付き合い、跡継ぎなど、みんなが「そういうものだ」と受け入れている理不尽に幼少期からたくさん囲まれたからこそ、それをリビルドしたいという欲求がスムーズに芽生えました。でも当時の私には、変える力なんてありません。その鬱憤が貯まりに貯まって、いつかそれを解消してやりたいという気持ちが、社会を作る側に回った今の私の原動力になっています。

細野さんの企画力の源泉は世の中の理不尽に対する鬱憤だったんですね。他に細野さんの企画力を下支えしているものはあるのでしょうか。なぜ人と違う企画を作れるのかをぜひ教えてください。


自分が出したアイデアが平凡かもしれないということに対する嫌悪を強く持っています。自分が良いアイデアだと思っているもののレベルが、実はその他大勢に埋もれている可能性を考えると吐き気がする。でも、これは何も特別なことではありません。芸人が、滑ることへの嫌悪を持っているのとまったく同じです。芸人がつまんないギャグを言ってはダメですよね。でも、企画マンと名乗る人でもその意識が不足していることは多々あるように感じます。


また、ルールの域を出ることも常に意識しています。たとえば「楽しい年賀状」を考える企画があったとして、普通の企画マンは素直に「どんな楽しい年賀状を作ろうかな」と考えを進めるわけです。でも、それでは思考が消費者の枠組みを出ていません。ありもののルールを受け入れて、その中でちょっとした企画を考えることが企画だと思っている限り、イノベーションは絶対に生まれません。「そもそも年賀状というものは何なのか?」と、仕組み全体を見渡す問いを立てることが重要です。

0から1を作ろうしている人と出会い、0.5を5にする仕組みを作る


0.5→5に注力しようと思ったのはなぜですか?


「こういう世界を作りたい」という特定のテーマが自分にないからです。私はビジョナリーな人間ではない。コレを解決したいという特化したものはないけれど、逆に言うとこの世の無駄や非効率といった理不尽すべてを解決したいんです。


一方、特定の問題を解決しようとしている人はたくさんいます。でも、そのような0から1を作ろうとしている人は、ナレッジや人脈が不足しているケースが少なくありません。だから、私が共感できる問題に取り組んでいる0→1の人と握手して、本人と同じくらいの熱量でハモる。それによってその人やプロダクトをとんでもなくパワーアップさせ、持続的に収益を生む仕組みを作ることが、私の介在する価値だと思っています。


0.5を5くらいまで持っていったら、そのプロダクトは自走できます。そうしたら「あとはよろしく」と、また次の課題にハンズオンで取り組む。そんなアーリーステージビジネスデザイナーでありたいですね。